在りし日の本所鉄交会館
在りし日の本所鉄交会館
在りし日の本所鉄交会館

 神田鉄栄会や京橋鉄友会と共に東鉄連の創設に携わった本所鉄交会は、1948年(昭和23)6月に発足した。

 本所鉄屋街の形成が神田や八丁堀よりも後発だったにもかかわらず、のちに都内最大の鉄屋街に発展したのは、現場を持ち、現物商売に徹するという地味ながら堅実な風土を原点とし、この地の誰もが浮利を追わず得意先との共存共栄を目指すことを共通の経営理念としたことで取引先の信頼につなげたから。この理念と併せて人の出会いを大切にする人情味の豊かさを「本所っ子気質」と称する。

 本所の鉄屋たちは割下水(現在の北斎通り)の両側や緑町界隈に軒を並べ、職住接近を背景とするご近所づきあいによって次第に公私の分け隔てのない、妻子を交えた家族ぐるみの間柄に発展した。それはさながら〝同業による町内会〟の装いであり、本所鉄交会の名のもとで集会を重ね、仲間意識を強くした。

 これが原動力となり、自前の活動拠点「本所鉄交会館」の建設を決め、1961年(昭和36)3月に竣工する。

 建設資金を本所鉄交会の会員企業が「出資」し、会館運営を「(株)本所鉄交会館」という会社形態」で行った。

 会のシンボルであり会員の誇りでもあった本所鉄交会館。ここを本拠に種々のイベントや事業が実行された。また、一時は会館内に東鉄連をはじめ浦安鉄鋼団地協同組合や全鉄連といった各団体の事務局も置かれ、本所だけでなく東京、そして全国の鉄屋の拠り所や発信源の役割も担った。

 その会館も、経年による老朽化で建物としての存続ができなくなり、07年(平成19)に住宅系デベロッパー大手に土地・建物を売却。その雄姿は消えたが、買い換え資産購入に伴う賃貸収入を本所鉄交会の財源のひとつとして会の活動を支える。こうして「会館の魂」は今も生きている。

 エリアコミュニティそのものが求心力だった本所鉄交会だが、時代の移り変わりとともに今の本所界隈にかつての鉄屋街の面影はなく、多くが浦安をはじめ郊外に事業拠点を移転。職住一体も僅かで、会員が本所の地に集う機会も減った。創設に携わり「本所」の名を全国に轟かせた先達の多くが現役を退き、あるいは天に召された。今は2代目、3代目が会の中枢を担い、4代目世代の姿もみられるようになったが、それでも「本所気質」は途絶えることなく、発足から77年を経た今も脈々と受け継がれる。

 ひと言で言えば「典型的な下町気質を持ちつつ、進取の気性にも富む」のが、本所鉄交会に流れるDNAであり、このことは初代の山口惣吉氏(山惣鋼板)から現在の阿部秀雄氏(アベスチールパイプ)までの18人の会長が、それぞれの個性とリーダーシップを発揮しながらその時々の時節や会員ニーズを踏まえて姿かたちを変えながら会運営を舵取りしてきたことで証明してきた。そして次世代へと引き継がれていくだろう。

 往時は100社を超えた会員数は、今は59社。傘下には若手組織の「本所鉄交鋼友会」と従業員組織の「本所鉄交向上会」があり、阿部会長は「鉄の業界で働く従業員を大切にするためにも特に向上会活動の活性化に力を入れたい」と考える。