日本冶金工業はきょう8月22日、創立100周年を迎える。1923年の関東大震災で火災による大勢の死傷者を出し、初期消火の重要性が認識される中、1925年に消火器の製造販売を目的に「中央理化工業」が設立され、これが日本冶金工業の源流となった。その後、時代の変遷とともに事業を転換し、現在は一般ステンレス鋼と高機能材を両輪として、フェロニッケルも自社生産するユニークな専業メーカーとして世界のステンレス鋼・高ニッケル合金業界で地歩を固めている。100周年を迎えた日本冶金工業の来し方と行く末について、浦田成己社長に聞いた。(谷山 恵三)

――8月22日に創立100周年を迎えます。

 「これまで国内外におけるステンレス鋼業界の供給能力過剰や構造不況、バブル景気崩壊後の失われた30年、国内外のステンレス鋼業界におけるメーカー再編など、いくつもの荒波があった。当社も苦難に直面したことがたびたびあった。その都度、社員は必死で頑張ったが、自分たちだけで乗り越えられるものではなくて、株主や取引先、金融機関、行政など大勢の方々が当社を支えてくださった。関係各位に対して感謝しかない。社内で言えば、歴代経営陣、諸先輩、役職員の努力、一緒に歩を進めてきた労働組合の理解と協力なくしては何事もなし得なかった。社内外共に感謝に堪えない思いだ」

創業の原点は「社会を守るものづくり」

――100年間であえて節目を挙げるとすれば、どの時代でしょうか。

 「大きくまとめると、会社起業の時代、火工品、冶金へと事業転換した時代、ステンレス鋼の一貫生産体制を整えた時代、それから経営改革を断行し今日に至る(ステンレス鋼と高ニッケル合金を両輪とする)高機能材路線に転換した時代だと思う」

 「1925年に中央理化工業を設立したのは、消火器の製造販売が目的だった。2年前の9月に起きた関東大震災では、火災による死亡者が圧倒的に多く、とりわけ初期消火の重要性が認識された。やや大袈裟に言えば、時代のニーズに即して『社会を守るものづくり』でスタートしたのが当社の始まりだ。その後、日本火工に社名変更して火工品に事業転換するが、原点はそういう会社だった」

 「冶金事業への転換も当時の時代背景が関わっている。1930年代の日本は特殊鋼や合金の多くを輸入に頼る状況にあり、国内の生産技術力は欧米先進国に比べ立ち遅れていて、国産体制の確立が急務だった。その中で34年に川崎作業所(神奈川県川崎市、現川崎製造所)の中に試験工場を建設し、翌35年にステンレス鋼の初出鋼を行ったことが、現在の事業につながる実質的な出発点になった。構想から実行に至る当時の経営のスピード感は凄かったと思う」

ステンレス鋼板の一貫生産体制確立

――日本火工は42年に日本冶金工業に社名変更し、43年に(フェロニッケルルッペの生産を始めていた)大江山ニッケル工業と合併、50年には日本で初めて酸素製鋼法によるアーク炉でのステンレス鋼製造に成功しました。

 「誘導炉に比べて格段に生産性を高めることができた。戦後の高度成長期においてステンレス鋼は伸びるという確信があり、50年代から次々と川崎製造所の設備導入を進めた。冷間圧延ではゼンジミアミルの導入を進めたが、まだ熱間圧延設備を導入できる市場規模ではなくて、ステンレス鋼専業メーカーが普通鋼メーカーに熱延を委託する時代が長く続いた。66年に当社初の熱延設備(プラネタリーミル)、71年にVOD(真空脱ガス精錬)、77年にAOD(アルゴン酸素精錬)を導入したことで、ステンレス鋼の一貫生産体制が確立した。フェロニッケル製錬の大江山製造所でも、この間にロータリーキルンの増設を進めた。プラネタリーミルについては、ステンレス鋼で世界初だったと聞いている。業界で実績のない熱延設備に命運を託したのだから、当時の経営陣は肝が据わっていた」

ステッケルミルを導入

――時代は飛びますが、96年に新熱延工場を建設し、ステッケルミル『NCH』を導入。97年にプラネタリーミルからの全面移管を完了しました。

 「時代のニーズが変化する中で、製品品質をさらに高め、ステンレス鋼専業メーカーとして事業を継続するには、新ミルの導入が必須だった。ただ投資負担も大きかった。残念ながら導入後に景気悪化の直撃を受け、経営再建に取り組む一因になったが、NCH(New Compact Hot Rolling Mill)は今も基幹設備として機能を発揮している」

――98年以降の経営再建の時代は、ステンレス鋼と高機能材を両輪とする現在の事業構造への転換という意味でも大きな節目でした。浦田社長は海外営業畑でしたが、2000年から3年間は経営企画の立場でも関わりました。

 「98年に中期経営改善計画を策定し、01年には追加アクションプランを決め、固定費の大幅削減などを進めたが、それでも収支改善目標は未達だった。02年に始めた中期経営再建計画では、私的整理に関するガイドラインに沿って、銀行からの金融支援などによって事業再建を図り、05年に予定より1年早く計画を達成した。あらゆるステークホルダーの方々のおかげで、当社は最大の苦境を乗り切ることができた」

高機能材路線に転換

――高機能材路線を敷いたのは01年の追加アクションプランの時ですね。

 「一般のステンレス鋼板では、いわゆる2006年問題(中国のステンレス設備増設ラッシュによる供給過剰懸念)がいずれは起きると分かっていた。当社は80年代からステンレス鋼より高い耐食性や耐熱性などを有する高機能材を手掛けていて、後にブラウン管用高精細シャドウマスク材では需要を大きく伸ばした。しかしながら、テレビの薄型化でブラウン管から液晶への転換が急激に進み、国内のシャドウマスク材需要が急減したことで、高機能材の海外展開に拍車がかかった」

 「プラネタリーミルはパワーが強くてSUS304に向いているが、硬い材料の圧延では苦労していた。タッチがソフトなステッケルミルは高ニッケル合金を造るのに適していた。フェロニッケル製錬の大江山もあるし、実績豊富なニッケル系ステンレス鋼やニッケル合金の分野を追求する戦略は当社に適していたが、もしも熱延設備がプラネタリーミルのままだったら、高機能材路線を突き進むことは難しかっただろう」

――社外から見ても、ひたむきに走っていた印象があります。

 「一般材では攻めて来られるのが分かっているし、資金が潤沢にある訳でもない。苦肉の策の高機能材路線という側面もあったが、高機能材の海外営業に本腰を入れ出した03年頃から、工場・研究・営業が見違えるように連携するようになった。最初はクレームも頻発したが、誰も『止めろ』と言わなかったし、危機感をバネに全社で力を合わせ、短期間で海外販売量を伸ばすことができた。経営陣によるトップダウンの統率力もあったが、社員全体が同じ目標に向かって集結していると実感できたし、会社の風土が変わったという意味でも大きな節目だった」