東京鉄鋼販売業連合会(東鉄連)では、2015年の創立60周年から現在に至る10年間を振り返りつつ、70周年を迎えた「現在」を起点に、次の節目に向けたこれからの将来、すなわち「next東鉄連」を展望する記念座談会を開催した。パネラーは、この間の東鉄連を運営した正副会長経験者9人。
――直近10年間を振り返る前段として、60周年の2年前に会長に就任した齊藤(榮)さんをはじめ当時の執行部にあの頃の東鉄連の運営状況を伺います。
齊藤(榮)氏 ひと言で言えば「事務局主導型」だった。それが悪いとは言わない。ただ、業界団体活動において会員であるわれわれの「顔や声」が出なさ過ぎるのはよくないので変えていかなければと痛感していた。そこで「全員参加」を呼びかけ、会員が東鉄連の行事や活動に何かひとつでもいいから出席できるように促すことが活性化への第一歩と考え、新たな組織づくりから着手した。事務局にはサポートにまわってもらい、役員には主体性を持ってもらうよう協力を仰いだ。
――副会長だった梶さん、お願いします。
梶氏 齊藤(榮)さんが会長になる少し前から会員の東鉄連離れが進み、会員減少に歯止めが掛からなかった。その理由を聞けば「会費を払っているのに東鉄連は何もしてくれない」と。彼らからは「無用論」とか「不要論」も浮上するなど事態は深刻だった。そこにクサビを打ったのが齊藤(榮)さんであり、受け身の姿勢で無関心だった多くの会員に興味・関心を持たせ、参加型に変えていった。
私自身は総務を担当し、事務局職員の勤怠管理や給与制度を確立した。それまでは明確なルールがなく、職員の士気や労働意欲にも影響するのでひとつの年齢別標準賃金大系をつくり、正副会長の評価のもとで賞与や昇給を決める制度に変えた。慶弔規定や会則の見直しなども行った。
――遠藤さんは如何でしたか。
遠藤氏 確かに当時は「事務局任せ」の雰囲気だった。会議も事務局が司会をし、審議を進め、総括して終わるのが慣例。あるとき、会合に出席した役員のひとりが、ひと言も喋る機会がなく帰るだけのやり方に不満を募らせたのを機に「司会は事務局ではなく副会長が輪番でやろう」と提案し、できる限り皆から多くの意見を聞き出す形式に改善した。
ただ、最初の頃は齊藤(榮)さんの顔色を見ながらおっかなびっくりの司会だった。進行中、齊藤(榮)さんからちょくちょく「そうじゃないんだ、私の言いたいのは」と遮られ、正直、どう考えているのか分からない事も多々あった。だから会議が始まる30分前に正副だけで集まり、事前の打ち合わせで意思疎通を図り、認識を共有して本番に臨んだ。
斎藤(正)氏 齊藤(榮)さんは〝落としどころ〟が分からない人だったから。
――斎藤(正)さんも渦中にいました。
斎藤(正)氏 齊藤(榮)会長体制が始動した頃、私は会計担当をしていた。東鉄連の財政状況は厳しかったものの、全員参加を掲げる以上、私は、いちばん重要でもっとも多くの会員が集まる総会のあとの懇親会費を無償にしようと提案した。はじめ、齊藤(榮)さんは抵抗があったようだが「会員のための総会懇親会なのだから」と説得し、理解してもらえたことを覚えている。
――遠藤さんは副会長として事業企画を担当されていました。
遠藤氏 あの頃、どのイベント・行事もマンネリ化し、参加者も固定化していたので若い世代の出席が少なく、人数が減ることはあっても増えることはなかった。そこで既存のやり方を見直し、趣向を変えて誰もが参加しやすくした。親睦ゴルフ大会が好例で、実行委員長の山岸さんと相談しながら年間スケジュールで日程を定め、ペリア方式を採用したうえで個人表彰以外に加盟団体による対抗戦やその日のペアリング賞を新設した。新たにボウリング大会を開催したのも思い出深い。
――60周年イベントでも遠藤さんならではの発想やアイデアで大いに盛り上がりました。では次に「60周年イヤー」を振り返ります。(5面「流通加工版」に続く)
パネラー
▽梶哲夫氏(元副会長、現・相談役)▽市野勝昌氏(同)▽斎藤正一氏(同)▽遠藤重康氏(同)▽齊藤榮一氏(前会長、現・理事相談役)▽井上憲二氏(会長)▽鈴木正通氏(副会長)▽山岸邦幸氏(同)▽大川伸幸氏(同)=順不同