70周年記念旅行で軍艦島(長崎)に上陸
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60周年記念式典(上)、周年記念旅行では洞爺湖(北海道)へ
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第1回「藤森塾」(12年2月)。以後6年連続で実施
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24年度総会で「ジュニア会」休会を宣言
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☆城北鉄交会 創立70年のあゆみ(年表)
☆城北鉄交会 創立70年のあゆみ(年表)
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 東鉄連傘下の城北鉄交会(会長・角田泰幸角田工業社長)は今年度を「創立70周年イヤー」と位置付け、10月には周年旅行会で長崎を訪問。そして11月26日には会員同士による記念の食事会を東京會舘で開催した。「会員相互の親睦」と「全員参加」を創設の精神とし、発足から代々そのDNAを踏襲して今回の節目を迎えた会の歩みを振り返るとともに、角田会長に会の概要や今後の展望について話を聞いた。

若手10人で「発会式」

 都内には、第二次大戦の戦中戦後を凌いだ鉄屋たちはもちろん、敗戦の痛手の中で生きるために鉄屋になった個人商たちも多く存在した。文京、豊島、板橋、北、荒川、足立といった「城北」地区も然りである。

 彼らは皆、きょうのメシ代や明日の仕入れ原資となる日銭を稼ぐため、一心不乱に焼け野原から鉄スクラップや焦げたトタン板、鉄筋など古鉄の収集に孤軍奮闘しながらも、生活のことや商売のこと、そして将来のことについて語りあえる仲間を求めた。そうした切実なる共通の想いが、同じエリアで同じ境遇にある同業者同士の集まりをつくろうとの機運につながった。

 古くから多くの老舗が軒を連ねた神田地区で今の神田鉄栄会が1948年(昭和23)2月に産声をあげたのを皮切りに、同年6月に本所鉄交会が、51年(昭26)6月に京橋鉄友会が有志によってそれぞれ結成されている。

 こうした機運にも乗じて城北地区でも域内の鋼材商10社ほどの若手経営者が「ヨコのつながりを持とうじゃないか」と集まり、王子の「花家」で発会式を行った。54年(昭29)2月の話である。

東鉄連に加盟し「創立」

 翌年の55年(昭30)5月。本所、京橋、神田の3地区団体が集結し、今の東京鉄鋼販売業連合会(東鉄連)の前身となる「東京都鉄鋼取引改善委員会」を発足させた。

 この背景には、50年(昭25)に勃発した朝鮮戦争(50~53年)が、貧しかった日本に干天の慈雨となって経済復興をもたらした反動で54年(昭29)に戦後初の循環型不況と言われる不景気(昭和29年不況)に見舞われたことがある。

 不況対策として政府が実施した強烈な金融引き締め政策が裏目となり、金融難に陥った企業が支払いを引き延ばし、挙句の果ては不渡り手形を乱発。「手形をみたら不渡りと思え」と言われるほど市場は混乱した。市況は暴落し、取引先も倒産するなど不況の影響は例外なく鉄屋にも及ぶ。追い打ちをかけるように商品を納入しても代金をまともに支払わない悪質な業者も現れ、信用不安が蔓延する中で街の鉄屋は商売に戦々恐々とした。

 「この事態を改善し、鉄屋が安心して商売できるために」との思いで結成したのが東京都鉄鋼取引改善委員会(現・東鉄連)である。集めた信用情報を会員に配布するほか、悪質業者に警告を発したり排除したりするなどして商業道徳の高揚と業界秩序の回復につなげていくことに努めた。

 信用問題や悪質業者に対する悩みは他地区の鉄屋にとっても共通だっただけに、城北鉄交会も56年(昭31)12月に同委員会に加入。このときを「会の創立」と位置付けている。

初の「親子会長」誕生

 創立時の会員企業数は35社。初代会長には、そのころ千駄木に店を構えていた加藤五兵衛商店社長の加藤五兵衛氏が就任した。創立時の会則には「本会は会員相互の親睦を図り、商道徳の刷新と同時に従業員の質的向上を図ることを目的とする」「幹事は輪番制にて会員より選出される」と記載されている。

 「親睦」が創設の精神であり、初代・加藤会長から今の12代・角田会長に至るまで歴代の会長と役員が親睦を第一に「全員参加」を旨として運営に尽力。会員メンバーがそれに呼応し、会の事業に協力・参画してきたことで70年間の歴史を連綿と紡いできた。

 この間の歴代会長は、2代目が初代の実弟である加藤守氏で3代・宮澤友彦氏(宮澤商事)、4代・谷治利貞氏(三進製作所)、5代・飯塚正三氏(やま可金属鋼鈑)、6代・西山繁氏(西山鋼業)、7代・奥澤明男氏(奥澤産業)、8代・殿塚氾泰氏(殿塚鋼材)、9代・長谷川茂氏(長谷川鋼商)、10代・大橋秀人氏(東洋シャーリング工業)。そして前11代・奥澤公明氏(奥澤産業)のときに城北鉄交会では初の親子会長が誕生した。

 前述の通り、そもそも地域の若手経営者によって結成された城北鉄交会は、草創期は高度経済成長も後押しに、若いメンバーたちに「自分たちの会を大きくしよう」との意識もみなぎり、会員増強に向け積極的に仲間を勧誘した。その甲斐もあって3代・宮澤会長時代の65年(昭40)当時には会員数が総勢で40社を数えた。今、振り返ってもこのときがピークである。

 この中には、かねよし商店(現・かねよし)と中村商店(現・中村)という埼玉県川口市の鉄屋の名前もあり、おそらくは隣接エリアであれば都内に限らず声を掛け、入会を募ったのだろう。

 かねよしと中村は、両社とも今は川口鉄鋼会メンバーである。ちなみに川口鉄鋼会が発足したのが69年(昭44)8月であり、中村の創業者・中村利治氏が初代会長でそれを支える副会長がかねよし創業者の吉田守完氏だった。川口鉄鋼会の会則に「会員相互の親睦を図り、業界発展に寄与する」とあることからも、両氏は城北鉄交会の存在や会員時代の経験などをお手本とし、川口鉄鋼会の創設に生かしたと推察する。

名講師、藤森氏を悼む

 城北鉄交会は「会員相互の親睦」を存在意義とするだけに、事業活動も景況や業界の情勢に関する情報交換会や講師を招いて種々の事柄について学ぶ勉強会のほか、懇親旅行会やゴルフコンペ、ボウリング大会などの親睦行事が主体。

 このうち近年の勉強会では、2012年度に帝国データバンクの藤森徹氏を初めて講師に招いて以降、好評につき17年度まで6年連続で講師役を務めたことが印象深い。

 藤森氏は企業のさまざまな倒産事例や信用不安事情に詳しく、とりわけ中小企業経営に精通するだけに、会員の中には鉄交会の枠にとどまらず藤森氏との個人的なつきあいに発展させたり人間関係を拡げたりしたケースも多くみられた。鉄交会の歴史に名を残す功労者の1人ではあるが、17年4月に急逝。会ではその直後に行った総会の場で藤森氏を追悼し、黙祷を捧げた。

バラエティ豊かな顔ぶれ

 長年のつきあいによって構築した会員同士の信頼関係がベースにあり、会員数こそピーク時の半数以下に減少したが、今の会員は皆、仲が良く、ひとつひとつの行事への出席率も高く、和気藹々とした雰囲気ができているのが自慢の一つだ。

 会員企業の顔ぶれもコイルセンターやシャーリング専業、レーザ加工や曲げ、穴あけ、溶接・組立までの一貫製作、各種一般鋼材の小売り、丸鋼やシャフト材を含む特殊鋼の加工・販売、ステンレス取扱いなど多種多様。

 全国規模の系列大手もいれば、社歴100年超えやそれに近い老舗もいる。海外事業展開を試みたり、M&Aによって業容を拡大・深掘りさせたりBCP戦略を講じたりした会員もいれば、特定品種に特化してよそに無い規格・サイズを豊富に常備し業界で一目置かれる販売大手も。

 実にバラエティに富むのも特長の一つだが、会員企業に共通するのは「決して派手さはないが堅実経営で幾多の景気浮沈を乗り越えてきた『実直でしたたかな鉄屋』の集まり」だということ。

使命果たしたジュニア会

 城北鉄交会の歴史を振り返るとき、二度にわたって組織された「ジュニア会」の存在が浮かぶ。1度目は昭和50年代に誕生し、長谷川茂氏や青木清二郎氏(熊乃前鋼材)、水野久夫氏(京北産業)ら今の重鎮・レジェンドたちが若かりし頃、メンバーに名を連ねていたが、自然消滅してしまった。

 2度目は07年(平19)。当時の若手二世三世合わせて計18人が「城北ジュニア会」を結成し、独自の活動はもちろん、若手パワーで親会事業の運営を下支えして盛り上げた。

 ちょうど他の東鉄連加盟団体でも若手下部組織が誕生した時期とも重なり、同じ境遇の若者同士が会の垣根を越えてイベントをコラボしたり勉強会や懇親会を共催したりして一大ムーブとなった。

 角田会長や奥澤前会長もジュニア会の出身であり、いまや本隊運営の中枢に立つ人財輩出にも貢献してきたが、直近では総勢10人まで減員したことを理由に24年度の総会で「一時休会」を決める。それでも奥澤、角田両氏に次ぐ会の次世代を担う若手は着実に育っており、使命はしっかりと果たしたと言える。

 創立70年を迎え、周年旅行と食事会の記念事業も無事に終了。次の節目に向け、また新たな歴史を刻んでいくことになる。その求心力は、創設の精神である「会員相互の親睦」であり、地域が育んだ鉄屋仲間同士の「絆」は、少数になったとしても揺らいだり色褪せたりすることはない。むしろ、より強くなっていくと期待する。

(太田 一郎)