鋼材ショット加工一貫専業大手のニホンケミカル(本社・広島県三原市)が、関東市場に進出し、浦安鉄鋼団地内に「浦安工場」を開設して今年で30年。その歩みを紹介するとともに、立ち上げからの歴史を知る村上眞二会長とその後、経営のバトンを承継した石田雅裕社長に話を聞いた。
1996年5月8日。浦安鉄鋼会館で開催した「ニホンケミカル浦安工場竣工披露会」には、鉄鋼メーカーや橋梁会社、商社・鋼材特約店らが集結した。その数、総勢150人強。如何に多くの関係者が同社の関東進出を待ちわび、歓迎したかを、この日集まった多彩な顔触れが証明した。
構想6年「満を持して」
関東では最大となる8幅対応のショットブラスト&プライマーライン(新東工業製)を新設し、連休明けの6日に「浦安営業所・工場」を開設。当時40歳の村上眞二取締役営業部長(前社長、現会長)を筆頭に広島から帯同したベテラン松岡勝典工場長や弱冠25歳で新婚だった城ケ瀧裕介氏ら事務所・現場合わせて計13人で船出した。構想から足かけ6年。下地を整え〝満を持しての進出〟だった。
すでに外販ショット一貫加工専業として競合ひしめく西日本エリアで知名度はあった。域内の造船大手や重機、橋梁各社とは良好な関係を築き、それをベースにこれら取引先の関東地区事業拠点ともつながりができていた。彼らとのビジネスが太くなれば、商社や鉄鋼メーカーとの関わりも増える。独立系の同社は系列色がなく、全方位にネットワークを張れるのも、強みの一つだった。
浦安に拠点を構える何年も前から、本社工場がある広島から村上氏が夜行に乗って東京に出向き、2泊3日の日程でメーカー、商社、ユーザー合わせて20社ほどを定期的にまわるのが、お決まりの営業スタイルだった。こうした地道な努力が実り、関東圏の受注量が全体の5割近くを占めるときもあった。とりわけ品質・納期対応力には定評があり、それを重宝する顧客が、地場はもとより東日本にも広がっていった。
一度は「白紙撤回」も
90年代バブル絶頂期。首都圏には外販ショット専業が1社しかなく、限られた供給能力では旺盛な需要に加工が追い付かず、納期に支障を来す。その都度、需要家から矢のように催促される商社は、歯痒い思いをするたびにこの地での能力増強を望み、切実な声で同社に関東進出を迫った。
それに背中を押され、場所の選定や工場規模、設備仕様や人の配置など綿密にFS調査を重ねる。それだけリスクの伴う一大事業であり、同社にとっては社運を賭けた大勝負だった。
時期については、特に慎重を期した。バブル期の土地高騰で予算に見合わず、一旦は計画を白紙に戻すことも考えた。それを思いとどまらせたのも、商社の熱烈な激励があったから。紆余曲折を経て浦安鉄鋼団地という好立地を賃借することが叶い、関東でショット一貫体制を構築した。
業界初、品質ISO取得
ここからの躍進ぶりは、周知の通り。
激戦区の西日本で培った独自の品質・管理・納期体制を関東市場に水平展開し、それが顧客満足にフィットして初期の段階から旺盛な受注量に恵まれた。地の利も味方につけ、浦安鉄鋼団地内企業からの新規注文も入り出す。彼らのオーダーは需要分野や鋼種が千差万別でロットも細かい。こうした関東特有の受注構成に初めは戸惑いつつも丁寧な仕事ぶりが評判を呼び、商圏も関東甲信越や東北方面へと広がる。取引件数増加に比例して受注量も伸び、初期目標の月産2千トンを3カ月でクリア。10月には同2900トンに到達した。
この頃はバブル崩壊で浦安鉄鋼団地内も閑散とし、夕方5時を過ぎれば多くの倉庫・工場はシャッターが閉まったが「ニホンケミカルだけは毎日夜遅くまで煌々と明かりが消えないでいる」と団地内で話題にもなった。
条材加工を手掛ける
97年には団地内企業と連携して塗装業務を開始。99年秋には、ショット専業では初めて品質ISO認証を本社工場と同時取得した。
その後、2000年代に入り、独自の付加価値路線を鮮明にする。皮切りは、関東にある造船大手から依頼されて着手した造船用形鋼(=条材)の切断・開先だった。ショットした条材を、顧客の要望に合わせて異形にガス切りし、ロットごとに細かく梱包して期日指定納入する。ショット業界で加工まで請け負うケースはなく、同社にとっても初の試み。屋外ヤードにスペースを設け、職人による手作業には苦労が伴ったが、松岡工場長の指揮のもと習熟度を高めていった。
これを契機に、別の造船大手からもセルガイドの組立やバルブプレートの切断・開先といった依頼が舞い込む。数量が多く、難度の高い要求も、試行錯誤しながら何とかこなし顧客満足度を高めた。
「ショットして加工」の一貫体制を独自機能とし、技術力と管理ノウハウを蓄積。顧客からは「ニホンケミカルに頼めば何とかしてくれる」と信頼を上げた。この努力が、のちの尾道工場開設や形鋼ベンダーの設置、自動切断&マーキング装置の導入・増設につながり、現在の全社・全グループにおける加工事業の拡充に寄与している。
「全量、やり直し」
ショットラインの品質強化や能力拡充にも余念がなく、仕様改良によって幅広対応力を2・6メートルまで拡幅。製品への僅かなショット粒キズの付着も抑えるよう工夫を凝らした。ショット粒キズの付着防止については、03年秋に生じた厳格な品質を求める注文主からのクレーム処理が教訓となっている。
バブル後遺症も癒え、世界同時好況の走りだったこの時期。平常の注文だけでも繁忙なところに突発的に舞い込んだ大量の突貫工事向けで「全量やり直し」を喰らった。安全性や強度には問題ないほどの微小なキズとは言え、客先の指示は絶対である。夜8時まで日常仕事をこなしたあと深夜12時までクレーム対象品を手直しする日々が1カ月余り続いた。「30年を振り返ってもあの時がいちばん辛かった」(村上氏)が、それによって連携した関係者との絆ができ、設備の弱点も克服したのは収穫だった。何より「社員には苦労をかけたが、よく頑張って耐えてくれた。ひとまわりもふたまわりも成長した現場を頼もしく思った」(同)。
Sサービスを子会社に
この時の連携先の1社が、同じショット専業のショット・サービスだ。同社はかつての江戸川鉄構。旧NKK(現JFEスチール)の厚板溶断系列だった旧東京シヤリング(現JFE鋼材)の子会社で、もともとは都内亀戸と川崎区扇町に工場を有したが、バブル崩壊後に亀戸を閉鎖し、川崎工場に集約した。2000年に「新江戸川鉄構」となり、01年秋に工場を川崎から浦安第1鉄鋼団地内に全面移転したのを機に「ショット・サービス」に改名した。
JFEの誕生で東京シヤが旧川鉄鋼材工業と合併しJFE鋼材となった直後の04年12月。JFE鋼材側の要請で、ショット・サービスの経営権をニホンケミカルが譲り受け、100%子会社となる。関東の2大ショット専業が浦安鉄鋼団地内で同じグループとなり、加工能力も合わせて月産5千トン規模に。ニホンケミカルイズムを注入したショット・サービスは実力を上げ、注文内容に応じたすみ分けもでき、受注間口を広げながら顧客へのQCDサービスを一段と高めた。
ニホンケミカル浦安第2工場と位置付けたショット・サービスは、17年春に浦安第2鉄鋼団地内に移転する。それまで「浦安加工センター」(浦安第2団地内)と称して条材の切断、開先、穴あけ、マーキングを手掛けていた賃借倉庫があったが、別のテナントと共同利用だったためスペースが制約されていた。このテナントが立ち退き、構内全てを活用できるようになったので最新鋭ショット一貫ラインを新設した。
二度の危機、乗り越える
これに先駆け、浦安工場のショットラインを15年夏に更新。品質精度や加工速度を性能アップし、プライマー範囲を任意に設定できる自動マスキング装置も採り入れた。14年秋には老朽化していた浦安工場事務所棟を全面的に建て替え、業務効率を高めた。
東日本大震災では浦安鉄鋼団地全体が地盤液状化被害を受け、同社も床面の沈下や設備傾斜に見舞われた。03年秋と3・11という二度の危機は、浦安工場の歴史において忘れることができないが、この難局を乗り越え、社員一丸で協力し合い、グループ総合力で顧客への供給責任を果たしたことが、その後の自信と結束につながった。
創業者の「想い」が原点
関東進出の成功が原動力となり、今や北海道や関西にもグループ拠点を持つ全国区に成長したが、当時は財務基盤がぜい弱だっただけに「失敗してたら間違いなく潰れていた」(同)。前進あるのみの覚悟で突っ走ってきた原点には、創業者・村上人司氏の「何としても江戸(=関東)に出たい」との強い想いがあった。
30年前の竣工披露式典の壇上で「念願が叶った。お客さんから『便利になった』と言ってもらえるよう、商いに精進する」と朴訥に、しかし力強く決意表明した創業者の姿を、あの日参加した多くが、今も鮮明に記憶しているに違いない。(太田 一郎)






