地元民にも愛される郷土のシンボル
地元民にも愛される郷土のシンボル

 JX金属の創業の地である日立鉱山。ここで100年以上も前から現代のCSRやESGにも通じる、地域との共生、環境保護への取り組みが実践されていたことを伝えるのが「大煙突」だ。

 1905年に創業した日立鉱山は、日本の近代化に伴う銅需要の急増もあり、急速に事業を発展させた。だが、銅生産の拡大に伴い周辺地域で亜硫酸ガスによる煙害問題が深刻化。そこで同鉱山は道義的責任のもとで地域住民に補償を行いつつ、煙害対策に着手した。しかし、「煙は空気で希釈し低く排出する」という当時の常識に基づき築いた排煙設備はいずれも成果が出なかった。そうした中、創業者の久原房之助は火山の煙が遠くに拡散することに着想を得て、高い煙突の建設に思い至る。反対者も多い中、気象観測や、煙に見立てた絵具を川に流し拡散などの研究を行った上で大煙突建設を決断した。

 1914年4月に建設が始まった。当時としては画期的な鉄筋コンクリート製で、高さは世界一の155・7メートル。足場は丸太と縄で組み上げ、資材は背負い箱に入れて人力で運んだ。重い資材を4キロ離れた建設地まで運ぶのは一日2往復が限界だったといわれている。工事には巨費が投じられ、のべ3万6千人強を動員し、わずか9カ月で完成させた。翌年3月に大煙突使用が始まると煙害が激減した。

 大煙突完成直後から植林事業も開始した。専門家との研究で選んだ煙に強い大島桜などを鉱山側で5百万本、市民の協力で513万本植え、計1千万本超の植林で野山に緑を取り戻した。

 その後大煙突は、72年の自溶炉などの完成で亜硫酸ガスの回収が可能となったことでそれまでの役目を終えた。現在はリサイクル炉の煙(蒸気)を出す煙突として活用されている。

 大煙突は地元の人々にも長く親しまれている存在だ。93年に3分の1の高さを残し倒壊した際には地元紙が「市民らがっかり」の見出しで報じた。祖父、父と3代にわたり日立事業所に勤める船木直登さんも小さい頃から大煙突を見て育った一人だ。「遠方からの帰路、大煙突が見えると故郷を感じたものだ。今も皆が大煙突と呼び、郷土のシンボルと感じてくれることがありがたい」と話す。

 一方で「大煙突完成までの苦心惨憺の努力は今なお社員の精神に刻まれている。大煙突を見上げるたびに先人の努力と強い精神を感じ、この会社に入って本当に良かったと思わせてくれる」と胸を張る。これからも地域住民との信頼関係と環境を守ることの大切さを次世代に継承していく考えだ。(相楽 孝一)(おわり)