千葉工場の母材倉庫に保存されている
千葉工場の母材倉庫に保存されている

 東京ステンレス研磨興業(社長・日下部繁氏)が6人で東京都荒川区に旗揚げしたのは1951年4月。設備は手動式鋼板研磨機2台、加工品研磨用の普通レース研磨機2台、酸洗槽2基と製品搬送用のリヤカー1台。この手動式鋼板研磨機の一つが主力拠点である千葉工場(千葉県八千代市)の母材倉庫の一角に保存されている。

 創業者の日下部増太郎氏は49年7月に閉鎖された日本ステンレス(現日鉄ステンレス)の松本工場(長野県)に勤めていた。松本工場の閉鎖後は、職人や設備、図面を生かす形で多くのステンレス研磨業者が起業した。同社もその1社であり、手動式鋼板研磨機の原型は松本工場にたどることができる。

 設備の躯体は木製で、腕利きの職人がトロッコの要領でテーブルを操作した。ゴム底草履に足袋、前掛け、マスクといった出で立ちで、首にタオルを巻き、夏は塩を舐めながら作業をしていたのが原風景という。

 創業当時、ステンレスの代表格は13クロム鋼と呼ばれる黒皮品だった。酸洗し手動式鋼板研磨機で下地・中間・仕上げ研磨を行うのに最低でも4工程、多い時は全部で6、7工程を要したそうだ。ちなみに現在の千葉工場は冷延コイルを1工程で高度の研磨品に仕上げることができる。

 50年代半ば以降、鋼板メーカーのセンヂミアミル導入が相次ぎ、ステンレスの大衆化時代が到来するなか、同社もコイル研磨やコイル精整の体制を整えていった。「コイル研磨設備を設計した際も、この機械でいろいろな加工データを取って参考にした」と日下部社長は振り返る。商用機としての役目は終えて久しいが、「4×8の板を扱えるし、回転、送り、圧下力などを柔軟に調整できる。10年ほど前まで実験用に使うこともあった」そうで現役時代は長かった。今では扱える人材はごく限られるため、年内に操作風景の再現動画を撮影し、保存することを検討している。

 日下部社長は「当社はこれからもパイオニア精神を持ち、創業者魂を失わず、研磨一筋で歩んでいく」と話す。「これまでも羽布研磨の品質基準を自ら引き上げる気概で来たし、今後も高度化に取り組む。新たな表面仕様のニーズに応え、また安全・環境・防災の向上に向けて、研磨設備の自社設計技術と進化する世の中の各種技術を融合させ、新しい時代を切り拓く設備を開発する」と先を見据えている。(谷山 恵三)