特約店看板を持って記念撮影(左から佐渡島克最高顧問、中原ヤマキ小林社長、佐渡島康平社長)
特約店看板を持って記念撮影(左から佐渡島克最高顧問、中原ヤマキ小林社長、佐渡島康平社長)

 表面処理鋼板をメインに建材・非鉄製品の販売などを手掛ける佐渡島(本社・大阪市中央区、社長・佐渡島康平氏)は、1876年創業の老舗流通。日清戦争や二度の世界大戦、オイルショックにバブル崩壊と激動の時代を歩んできた。佐渡島克最高顧問は「そういった長い歴史の中で、戦前の佐渡島の様子を知ることのできる資料は非常に貴重だ」と話す。

 理由は単純。1945年、大阪大空襲により同社が当時船場に構えていた本社および周辺の倉庫は全てがれきの山と化してしまったからだ。当時社長を務めた佐渡島克最高顧問の父は軍隊へ、物価統制により金属の向け先は軍需産業が優先され、会社が一時休眠状態となっていた際の出来事だ。

 これまでの商いが分かるものや、顧客との大切な思い出は全て燃え尽きてしまった。戦後、絶望の中で6人の社員を集め再興したのが現在の佐渡島。もともと倉庫があった大阪長堀の土地に新本社を建設した。「父が戦地から戻ってきて、不撓不屈の精神で再スタートを切った」(同)と振り返る。

 戦前の佐渡島を知ることのできる資料が現存すると分かったのは、昭和の後半になってから。佐渡島本社から距離にして900キロメートル以上離れた北海道函館市のヤマキ小林(社長・中原哲信氏)にて、「特約店看板」が大切に保管されていた。これは大正時代に佐渡島が特約店である小林銅鉄店(現ヤマキ小林)に贈呈したものだ。縦40センチ、横60センチほどの木製の看板は、大人一人で持つには少し難しいサイズ。黒塗り木版に金字で両社の社名が深く刻まれている。

 ヤマキ小林は大正5年創業で、中原社長は「我々にとって、本州とのつながりは佐渡島さんが初めて。思い入れのある会社で、今も取引がある」と話す。特約店看板を受け取った当時は、亜鉛鉄板を大阪から函館まで船で運び、馬車で倉庫まで納入していたという。

 明治時代、初代佐渡島伊兵衛氏が大阪の船場に銅・鉄地金商として佐渡島商店を構えたことでその歴史をスタートさせた佐渡島は、着々と営業範囲を拡大し、全国的に鉄鋼専業問屋としての存在感を高めていった。当時のたくましい記憶をたどるアイテムが、激動の時代を超えて、今も遠く離れた場所をつないでいる。

(山浦 なつき)