





厚板溶断加工大手の中嶋産業(本社・大阪市住之江区南港南、社長・中嶋基博氏)のグループ会社で、厚板溶断だけでなくプレスや穴あけといった二・三次加工も手掛ける松本シヤリング工場(本社・同区南港東、社長・同氏)は今年で創業100周年を迎える。大正・昭和・平成を駆け抜け、今日の令和まで厚板加工事業を展開する同社の歩みと今後の展望などについて中嶋社長と、前オーナーで前々社長の松本圭市氏に聞いた。(綾部 翔悟)
――今年で節目の100周年を迎えます。
松本氏「100年前、父である松本徳太郎氏が大阪市西区九条に個人商店として創業したのが始まり。1930年6月に現在の『松本シヤリング工場』に商号を改めた。私が小学生の頃は工場と自宅が隣接しており、数人の従業員とシャーリングがあったことは覚えている。また、当時から多種多様な向け先の受注に対応していたと聞いている」
松本氏「41年1月に同業者である新興シヤリング工場と合併して社名を『新興シヤリング工場』とし、太平洋戦争(大東亜戦争)を迎えた。そして大阪大空襲で工場が焼け野原となり、工場の一時閉鎖に追い込まれた。この空襲により建屋・設備・資料関係がなくなり、何月に創業したか不明となった。100年を迎えたということも中嶋社長からの連絡で知った。よくよく考えると創業40周年を記念して置き時計を作って取引先に配った。その置き時計の裏面の創業年を見て計算すると、確かに今年が100年になる。ちなみに、その置き時計には創業月の記載はなかった」
中嶋氏「買収した際に歴史が非常に古い会社であることは知っていたが、中嶋克仁常務取締役から今年で創業100周年と聞いたときは『まさか』と思い、驚いた。創業100年を迎えることができたのも前オーナー時代に築き上げた礎があり、また長年の信頼関係にある取引先がいてこそだ。全ての方に感謝するとともに、これからも皆さまとともに歩んでいきたい」
――一時閉鎖を余儀なくされたが戦争が終わり、48年3月に「松本徳シヤリング工場」個人商店として西区で業務を再開し、50年2月に株式会社化しました。
松本氏「業務を再開してからは朝鮮戦争が勃発。それに伴い軍需特需で厚板が面白いほどに売れた。切板の利幅も3万円以上取れた時代であり、現在の貨幣価値に換算するとあり得ないほど利幅が取れていた。当時から厚板の薄物のシャーリング加工を得意としており、板厚6ミリの中板なども切っていた。向け先は大阪府内の同業他社や問屋など100社以上と取引関係にあった。また当時から富士製鉄(現日本製鉄)が主要仕入れ先であり、中山製鋼所材も取り扱っていた。現在も変わらないと聞いている」
松本氏「徳太郎氏が業務を再開するにあたり、阪口興産が保有していた土地を当時懇意にしていた専務から購入して工場を建てた。前述の朝鮮戦争により特需の波に乗り、また専務の後押しもあり生産拠点を増やして九条周辺で工場を3拠点有していた。そしてシャーリングを増設しながら増員を図り、当時は工場作業者だけで約20人いた」
――73年4月には南港東に現在の本社および工場を移転しました。
松本氏「当時の新日鉄・広畑製鉄所(現日本製鉄瀬戸内製鉄所広畑地区)では2~3メートル幅の厚板を製造しており、九条に点在する3拠点では手狭となったため集約に向けて新たな土地を探していた。そして徳太郎氏が大阪シヤリング団地協同組合を発足させ、南港東のシャーリング工場団地に移転した。大阪シヤリング団地協同組合の発足については父の尽力していた姿を今でも思い出す。移転後も厚板の薄物加工を強みにシャーリングやガス切断機を導入し、小ロットの小回りを利かせた切板販売を展開していった」
松本氏「バブルが崩壊して以降、厚板シャー業界を取り巻く経営環境が厳しくなったことに加え、私が高齢となり後継者難だったことから、以前から知り合いだった中嶋産業創業者の中嶋秀章前社長と話し合い、本社・従業員・販売商圏の一切を中嶋産業に全面継承した。売却後に私は一線を引き、相談役を退任してからは老後生活を満喫している」
――松本氏は御年93歳。昔ならではの出来事はありますか。
松本氏「戦前・戦後まもなくは溶接棒不足であり、薄い鉄板を板幅2~3ミリにシャーリング加工して溶接棒の代替としていた。5×20ミリの鉄板は従業員4人が肩で担いで移動させることもしばしばだった。また、西区に本社を置いていた時は境川沿いに位置していたため船で鉄板を入荷しており、シャーリング加工した厚板の薄物は人力で運ぶことができるため、朝出社すると切板がなく夜中に鉄板が盗まれたこともあった(笑)」
松本氏「当時は馬を使用して切板を配送していた。近場の馬匹業者に連絡をして馬を借り、台車に2~3トンの切板を乗せて馬で運んでいた。今里(大阪市東成区)など配送途中に上り坂(谷町周辺)があると馬が疲れるため、馬への負担を軽減するために上り坂の緩い道筋を御者が選んで運んでいた。また昔はシャーリングで板厚の厚いものも切断していたが、ガス切断機の登場で厚板加工業界が大きく変わったと思う。シャーリングは今も残り続けているが、ガス切断機の登場は時代の流れを感じたとともに、これまでの中で一番印象に残った出来事だった」
――創業者の徳太郎氏、徳太郎氏の右腕だった2代目社長の宮崎長一氏、3代目社長の圭市氏を経て、中嶋産業グループとなりました。
中嶋氏「父の秀章氏が4代目となって以降、中嶋産業では厚板および極厚板を、松本シヤリング工場では厚板の薄物を加工することでグループシナジーを創出している。グループ全体で幅広い厚板を取り扱いできるため、最適生産体制の構築など経営のハンドリングが行いやすくなった。また当社の主要母材は神戸製鋼所であり、松本シヤリング工場の主要母材が日本製鉄であるため、グループ全体で考えると主要仕入れソースが増えたことになる」
中嶋氏「買収後は職場環境のリニューアル工事の実施や、隣接していた旧辰巳鋼業跡地(約2千平方メートル)を取得して第2工場を開設。そして金沢スチールの自主廃業により営業商権を中嶋産業が引き継いだため、厚板の薄物加工は松本シヤリング工場に振り分けるなど収益の安定化に向けた取り組みを実施した」
中嶋氏「松本シヤリング工場の自力をつけるため、切板加工能力の増強(レーザー切断機やプラズマ切断機の新設)、切削開先機の新設による開先加工能力の拡充、自動化設備の導入などを推し進めた。そして豊富な設備を要する松本シヤリング工場の本社工場では従業員のスキルアップとBCP対策から、従業員一人ひとりが専用設備以外も操作できる体制を構築している。生産性を向上させながら従業員の多能工化も進めている」
――グループシナジーを発揮しながら単体での自力も高めている。現在の松本シヤリング工場の概要を。
中嶋氏「2工場体制で第一工場ではCO2レーザー切断機(新日本工機社製)とプラズマ切断機(コマツ社製)を駆使して厚板を溶断し、隣接する第二工場でプレス・穴あけ・開先といった二・三次加工を手掛けている。当社グループの関西圏における生産拠点で二・三次加工を手掛けているのは松本シヤリング工場のみ(関東圏では中嶋産業の『かずさ工場』が二・三次加工を手掛けている)。松本シヤリング工場の強みである板厚16~50ミリの厚板加工と二・三次加工に磨きをかけている」
中嶋氏「足元の月間加工量は1500トン。主に建産機向けが中心。従業員は30人で工場長は松本オーナーの時代から在籍している。厚板業界は厳しい経営環境が続いているが、得意の二・三次加工を駆使しながら需要を捕捉し、2025年8月期も黒字を見込んでいる」
――創業110、120年、そして次の200年に向けてこれからの歩みをお教えください。
松本氏「私は一線を退き引退した身。とやかく言うことはない。ただ、直近でも厚板業界は厳しいと聞いている中でも、中嶋産業グループの発展に寄与していってほしいと願っている」
中嶋氏「高精度かつハイスピードな鋼板切断を手掛けるレーザー切断機とプラズマ切断機のほか、二・三次加工に対応すべく、開先用ロボットやNC孔あけ機もあり多様な加工品を提供できる強みを生かしながら、当社の技術力の拡充に向けてこれまで以上になくてはならない拠点へと成長していきたい。働きやすい労働環境を構築して従業員満足度を高めていくとともに、顧客満足度のさらなる向上のため、高品質な製品作りを目標に従業員と一緒に取り組んでいきたい」