外国人居留地が立ち並び、港での貿易が盛んに行われた明治の中頃。ハイカラな神戸の街で、パンチングメタル(打抜金網)を中心とした総合金網メーカー、奥谷金網製作所(本社・兵庫県神戸市、社長・奥谷智彦氏)の歴史はスタートする。初代社長奥谷儀三郎氏(奥谷現社長の曽祖父)が出生の淡路島から丁稚奉公で大阪の金網屋にて修行。その後、明治28年に神戸の地で一旗揚げるため店を持ち、金網・金網細工製造に取り掛かったという。
当時の取り扱い製品は手網で、亀甲金網を中心に織金網からなるカゴや茶こし、ふるいなど、職人が手作業で制作する金網細工だ。日本の産業製品が織物や陶芸品といった「工芸品」から、時代とともに確かな技術力で生活を支える「工業品」に変化していくそのさなか、同社の金網製品は高く評価された。
そのことが分かる4枚の賞状が、本社に大切に保管されている。明治38年、貿易上役立つ製品であるかどうかが評価される「神戸貿易品品評会」では、兵庫県と神戸市からそれぞれ褒状を受け取っている。また、「神戸市製産物品評会」でも有功賞を受賞。神戸産のお茶や木材、生糸などあらゆるものが出品され、会場には多くの人が訪れたとされている。
同社の金網は日本を代表する工業製品としても好評を得る。国内の産業発展と魅力ある輸出品の育成を目的に開催された第5回「内国勧業博覧会」では、幕臣でもあり明治政府にも重用された大鳥圭介ら審査員から褒状を受け取っている。同博覧会は海外からの出品もあり、出品点数は3万点以上、500万人前後の観覧者が訪れたと言われている。
華やかな明治時代から、大正、昭和と時は流れ、第二次世界大戦が勃発。戦時中多くの工業関係の企業が休眠会社となる中、同社の作る金網製品は市民の生活必需品と見なされ、国から物資供給を受けながら何とか経営している状態を保っていた。5代目社長である奥谷勝彦氏(現会長)は「当時5歳ぐらいだったか、神戸大空襲時には祖母が賞状を缶に詰めて、最低限の貴重品と一緒に持って急いで神戸駅へ逃げた」とその苦労を振り返る。現在の神戸本社ビルは戦後、昭和37年に新設されたもの。その後同社は着実に業容を拡大し、1970年頃からパンチングメタルの製造を開始。パンチングメタルを生かした多種多様な工業用金網を開発・製造している。
これらの歴史を振り返ることのできるミュージアムを本社1階にて、設立60年を迎える5月中旬にオープン予定だ。現在6代目の奥谷社長は「創業者や先代の方々がつないでくれた歴史を誇らしく思う。また、温故知新の気持ちを大切に、これからも神戸とともに歩んでいく」とほほ笑む。(山浦 なつき)



