耐火物の主力生産拠点、岡山工場
耐火物の主力生産拠点、岡山工場

 鉄鋼向け耐火物の大手メーカー、品川リフラ(旧・品川リフラクトリーズ)が今月、創業150周年を迎えた。1875年(明治8)に民間初の耐火物メーカーとして産声を上げてから1世紀半。鉄鋼向け耐火物に進出してからも130年の歴史を誇る。日本鉄鋼業を資材供給で支えながら、鉄とともに発展、成長してきた。同社は「150年」を機に、新たな一歩を踏み出した。

 品川リフラは、旧・品川白煉瓦、旧・川崎炉材が経営統合し2009年に発足した。150年前に創業したのは品川白煉瓦。川崎炉材が発足した1938年(昭和13)から両社統合までは、それぞれ別のルートで歴史を刻んできた。

 東京・品川が発祥の地

 東京・品川区。東海道本線のガード下、目黒川沿いに、「官営品川硝子製造所跡」と記した石碑が建つ。石碑には明治6年、国内初のガラス工場がこの地で操業を始めたと記されている。

 この土地こそ、品川白煉瓦の発祥の地だ。耐火物製造はガラス工場の操業開始に遅れること2年後、同工場敷地内で操業を開始した。当時造っていたのは、ガス灯向けのガス発生措置に使う耐火レンガ。文明開化の象徴、ガス灯が出始めたころで、国産初の耐火レンガの供給から同社の歴史が始まった。

 鉄鋼向け耐火物に進出したのは1894年(明治27)だったが、当時はまだ、ガス製造用や建築用途が多く、品川白煉瓦も非鉄鋼向け耐火物の供給に力を注いだ。その代表的なものが、いわゆる化粧レンガ(赤レンガ)で、当時の東京駅の駅舎に使われたことで知られている。

 川崎重工から川鉄傘下に

 川崎炉材は1938年、児島窯業として岡山県で創業した。当時は鉄鋼部門を持っていた川崎重工業が耐火物の主な納入先だった。川崎炉材に社名変更したのは44年。川崎重工が全株式を取得したのを機に商号変更した。この時、社長に就いたのが、のちの川崎製鉄社長・西山弥太郎氏。当時、鉄鋼メーカーにとって耐火物は資材ではなく、安定調達が必要な原料という位置づけだった。

 戦後は、財閥関係会社指定を経て、49年に川崎重工から分離。翌50年には、川崎重工の製鉄部門が分離・独立してスタートした川崎製鉄の傘下に入った。

 技術力が源泉

 鉄鋼業とともに発展してきた耐火物産業は、鉄鋼がそうであったように、環境変化の荒波を幾度も乗り越えてきた。

 品川白煉瓦、川崎炉材の旧2社も戦前、戦後を通じて、厳しい経営環境にされたが、その都度、逆境をはね返してきた。その源泉のひとつが「技術」だ。

 耐火物の品質・性能を測る一般的な指標に原単位(粗鋼1トン当たりの耐火物消費量)がある。70年ごろまでは30キログラム前後が標準とされた。増産が叫ばれた高度成長期、高炉メーカーが求めたのは耐久性の高い耐火物。転炉など製鋼設備のメンテナンス回数を減らすことが増産に効果的だったからだ。

 耐火物各社が高炉メーカーのニーズに応えて開発した代表的な耐火物が転炉用のマグカーボンレンガ。耐火物に樹脂を充填することで耐久性・耐熱性を高めたレンガだ。耐火物メーカー各社が、こうした高品質レンガの開発・実用化を急ぐなかで、品川白煉瓦、川崎炉材の2社は、その商品化をリードした。

 耐火物の国内生産量は24年度でおよそ80万トン。過去最高を記録した70年度には約130万トンを生産しており、足元の生産水準はその55%程度にとどまる。生産量の約8割が鉄鋼向けとあって、「鉄」の影響を受けるざるを得ない。

 当面、国内需要の回復が見込めない中で、歴史をさらに積み重ねていくために、持続的な成長をどう遂げるのか。品川リフラが今、目指しているのは、国内生産基盤の確立と合わせ、グローバル展開の強化だ。

 昨年5月に策定した「ビジョン2030」は、30年度のあるべき姿の提示と合わせ、30年度の定量目標も定めた。目標は連結売上高2400億円、ROIC(投下資本利益率)10%。耐火物、セラミックスといった構内の既存事業の競争力強化策に、グローバル展開を組み合わせることで、成長を続ける構えだ。