ドローベンチの巨大ギア
ドローベンチの巨大ギア
自社設計した4インチガス溶接鋼管ミル
自社設計した4インチガス溶接鋼管ミル
ドローベンチの巨大ギア 自社設計した4インチガス溶接鋼管ミル

 丸一鋼管・堺工場(工場長・成崎敏行氏)には同社の黎明期を支え、その成長の原動力となった設備群が展示されている。丸一鋼管が鋼管製造を始めたのは昭和10年。当時はドローベンチ方式による造管で、同方式では巨大なギアを利用し、スリットコイルを引っ張りながら成形していく。堺工場にはその巨大なギアが展示されている。当時は耳付きで不ぞろいの板幅8センチほどの熱延コイルだったという。長さをカットしながらダイスに差し込み造管した。溶接もガスによる手作業だった。

 エピソードがある。米軍機の空襲が激しさを増した太平洋戦争末期、丸一は軍部から疎開を指示され三日市鋼管製造所との合併が決定。設備搬出も完了し、8月14日の合併調印のみとなった。しかし、当時の吉村タキノ社長は当日空襲で調印式に出席できず、15日の終戦を迎えることとなった。現在の吉村貴典社長は「もし売却が成立していたら、いまの丸一はなかった」と話す。

 戦後の昭和23年には高能率の新式自動造管機を導入した。後に社長、会長となる当時20歳だった故吉村精仁氏が小切手を握りしめ、東京の三瓶製作所にまで買い付けに行った。この1インチ造管機も展示されている。当時は鋼管切断がまだ手作業で「作業者が造管速度に合わせ、切断機と一緒に移動しながら切断していた」(吉村社長)という。また、造管ラインはロールの両サイドにスタンドがない片持ちタイプで、吉村社長は「設備のバランスが崩れやすかったはず。頻繁に調整作業をする必要があったのではないか」と話す。

 堺工場には自社製作した4インチガス溶接鋼管ミルが展示されている。米国の最新の設備メーカーのカタログなどを参考しながら製作したという。昭和33年には電縫鋼管ミルを導入。同社初の電縫鋼管ミルは米アビー・エトナ社の2インチ低周波ミルだった。

 現在は1台のミルに複数のモーターが使用されているが、戦前から戦後は「モーターがたいへん貴重で、一個で多くの設備を動かした」(同)。このため、4インチガス溶接鋼管ミルにも大型モーターはひとつ。それですべての圧延スタンドを制御した。このほか、直径2メートルの巨大丸鋸・フリクションソーも展示されている。これはコラムの生産ラインで使用されていたもので、15秒程度で大型コラムを切断していた。「切るというよりも摩擦で溶かす」(同)ものだったという。これらの設備群は同社が多くの試行錯誤を重ねながら歩んだ歴史の一節だ。職人が苦労して積み重ねた技術がいまの丸一を支えている。(宇尾野 宏之)